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ケアビレッジ箱根崎のあゆみ

インタビュー:ケアビレッジ箱根崎理事長 中原紘嗣

友と絆の大切さを学んだ大学を中退

「お父さんが亡くなったから、跡を継いで。戻ってきておくれ......」。母からの連絡は、私が下関水産大学校の三年生の時でした。父の跡を継ぐなんて、考えたこともない時分です。というのも、両親は私が中学生の頃から別居して、私の進学まで十年間、母子二人で暮らしていたんです。私は船乗りという自分の夢を追いかけるのに精一杯で、家業を考えたこともありませんでした。母だけは私の水産大学進学後、父のもとに戻っていたのですが。
水産大学の寮での生活は、甘いものではありませんでした。特に夏期実習は、朝六時から夜の十一時まで、やれ遠泳だ潜水だと訓練に明け暮れ、きついなんてもんじゃない。でも私には、同じ苦しみを共有して、夢を語り合える友がいました。自分を裸にして話ができ、固い絆で結ばれた関係は居心地が良かったんです。良き友の存在の大切さを感じていました。
でも、結局は水産大学を中退して実家に戻りました。そこはやはり、苦労をして、六畳一間のアパートで母子二人暮らした時代、母が私に注いでくれた『無償の愛』に応えたい思いが勝ったんですね。

継いだばかりの店が全焼

私の実家は、熊本県山鹿市に百年以上続く『油屋』という金物屋です。地元の名士だった父は、利益よりも道義を重んずるタイプの人間でした。商売のことを心配していたのはむしろ母の方。母は、子供の頃に実家が倒産し、貧乏の辛酸を味わい尽くしていたんです。だから嫁ぎ先でも「のれんを守る」という気持ちが人一倍強かったのでしょう。私も「油屋を永遠に残さなければならない」と身が引き締まる思いで後を継いだものです。
地元でいまでも語り草になっている「山鹿の大火」が起こったのは、その矢先のこと。丁度台風の晩でした。火は風に煽られて瞬く間に燃え広がり、一晩で百五軒が焼け落ちたんです。
命からがら母を連れて逃げると、あっけないものですね。父が遺した油屋は、火がついてたった五分で全てが灰と化してしまいました。残ったのは、母が守った先祖の位牌と、私がはいていたステテコだけです。恐怖とともに「これで全部リセット。俺の力ひとつでやり直す好い機会」と、半ばやけくそのような思いが、胸に去来しました。

借金まみれのなかで見た夢

そんななか「これから田舎で必要なのは、どんなビジネスか」と考えていて思い当たったのが、介護・福祉分野です。高齢化社会は確実に訪れますし、地域に貢献することもできる。そう思い立ち、その後結婚した妻と二人で奔走し始めたのがいまから三十年ほど前です。
その一方で、油屋を復活させるために、他分野への進出を始めました。しかしこれが失敗の連続。その度に借金が残り、返すメドが立たないほど膨れ上がりました。
また、異業種から介護分野への参入は熊本県では初めてのケースで、いざ蓋を開けると並大抵の苦労ではありませんでした。特に認可と資金繰りでは、妻にだいぶん苦労をかけましたよ。縁あって、やっと植木町で開業できそうだ、というところまでこぎ着けた時には、最初に思い立ってから二十年の歳月が流れていました。

魂に突き刺さった一言

最後の難関は、土地の問題でした。開業予定地は田んぼだったのですが、十回以上の地域集会を開いても地元住民の賛同が得られなかったのです。「中原さんは金目当ての商売人だけん、信用できん」と指摘する人もいました。最後の集会では圧倒的な反対意見に押され「もはや、ここまでか......」と、断念せざるを得ない状況にまで追い込まれてしまいました。
その瀬戸際、あるご老人が手を上げて「黙って聞いとったら、若い者の言いたいことばかり言いよって。少しは年寄りのことも考えてくれ。施設ができんかったら、わしらは一体、どうすればよかとか!」と一喝されたんです。その瞬問、反対をしていた人達は一斉にハッとし、我に返ったのです。集会は急に賛成へと風向きが変わりました。
しかし、この言葉に一番ハッとさせられたのは、他ならぬこの私でした。それまで私は『地域貢献』というお題目は掲げていたものの、実際に施設を心待ちにしているお年寄り達の切ない気持ちが見えていなかったのです。介護に関わる責任の重大さと、初めて向き合った瞬間だったと思います。
同時に「追い込まれた時、一人でも賛同者がいることは、どんなに有り難いことか。同志を得れば上手くいくものだ」と、身をもって経験した瞬間でした。

友との絆が蘇る体験

そうしてやっと念願の介護保健施設を開設したわけですが、開設してしばらく借金の返済、人材の手配などに忙殺され、また私の打算的な根性が頭をもたげてきました。特にこの仕事では『仁と算のバランス』が大事です。また、介護施設は様々な人間が活動するので、コミュニケーションの取り方一つが人心を左右します。なのに私はスタッフヘの細かい目配りを怠ってしまったんです。
スタッフの間には不満がたまっていたようです。「評価してもらえないなら頑張っても損だ」と。そう思っているスタッフのなかに、岩木(当時総務部次長)がおりました。もう、辞めようとまで思い詰めていたのですが、それを知らない私がたまたま彼を、ある研修に送り出したんです。そして私白身も、一度見てみよう、と研修先に足を運び、自分も体験してみました。
そこに待っていたのは、朝から晩までくたくたになって体を酷使する世界。岩木次長と二人、汗と苦労、やり終えた時の達成感を共有するうちに「ああ、これは、私が忘れていた水産大の世界だ」と気づきました。皆共に汗を流し、言いたいことを言い合い、同じ夢を描く。涙も出るし、団結心も生まれるのです。ここでやっと私は、原点に立ち返ることができたのです。

無償の愛で同士を育てる

そして、いまでは一番の理解者に育ってくれた岩木次長の存在を足がかりに、私と他のスタッフとの関係も変わり始めていきました。
私の大学の仲間や三人の娘達など大切な人に対する思いは、見返りを期待しない『無償の愛』です。岩木次長と過ごした研修先での体験から私は、ゲストはもちろん、スタッフ、お取引先などとの仕事上の関係も『無償の愛』をべースにするべきではないかと思うようになりました。仲間を育て、同志と呼べる友を育てることが人生最大の課題と白覚しています。 気づいてからは、全てのスタッフの誕生日に、手紙を書いて送るようにしています。一人ひとりの個性に合わせて書いていますから、文面も全く違いますよ。こうしたことを始めてから、辞める人が少なくなりました。 そうしたコミュニケーションとは別に、施設の核になる幹部五人と、密に目標を確かめ合う場を設けてもいます。実は、中身は飲み会だったりしますけどね。ですが、少数でもしっかりとした理解者と普段からふれ合い、夢を語り合うことで経営者の想いは確実に、組織の隅々まで伝わると信じています。
ところで、コムスンの不正が世間を騒がせましたが、介護事業は売上の九割が介護保険からきます。こういう仕事はあまりないわけですからルール、コンプライアンスを人切にすることが大前提です。特に感謝する気持ちを持ってほしいと思います。また、経営者の全国展開する、という意気込みは分かりますが、それでは介護が十把一絡げになり、一人ひとりの利用者を見詰めることはできないと思うんです。
私の『想い』『目標』は、この付近に住むお年寄りに、ご自宅の近くで介護を受けられるように、それぞれの地域に小さな介護拠点をたくさん設けることです。それには、まず人材の育成が必要。とにかくいまは、試行鋳誤しながらも、人を育てるという大仕事に着手しようとしている真っ最中です。

Relieve 2007年9月号(Vol.17)より抜粋

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